ガルパンから歴史を学ぼう⑥プラウダ戦のモチーフは「スターリングラード戦」ではありません!多分!!

ガルパンから歴史を学ぼう⑥筆者の独断と偏見で解説します!!プラウダ戦のモチーフは「スターリングラード戦」ではありません!多分!!ドイツ軍の大撤退戦「カメネツ=ポドリスキー包囲戦」がモチーフだと思います!!(タイトル長!!)


皆さま、お久しぶりのガルパンコラムになってしまいまして申し訳ありません_(._.)_金剛でございます。

前回まで、海楽フェスタレポートに追われていましたが、何とか第4回最終回まで終えましたので、今度は同じガルパンな話題でも、本編の方に話を向けようと思います

今回は、ズバリ、プラウダ高校との試合のモチーフは、「スターリングラード戦」ではなく「カメネツ=ポドリスキー包囲戦」です!!

という非常に長くて、かなりマニアな人でないと良く分からない内容になることが予想されてしまう題名になってしまいました(笑)申し訳ありません<m(__)m>!!

この辺も、なるべく簡単にお話したいと思います。

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ガルパンの戦いは、史実の主たる戦いをモチーフにしているんですよ!

以前もコラムの中でお話したように、アニメガルパンでは、大洗女子やその他ライバルチームが戦う姿を、実際に第二次大戦の戦場でとられた作戦等を本編でも再現しているという、細かい演出として組み込まれています

例えば、サンダース戦で、バレー部チームの89式戦車が、材木を引っ張って、砂ぼこりを立てて敵を誘い込むシーンがありましたね。

これは史実において、第二次大戦の、北アフリカ戦線でドイツ・アフリカ軍団を率いる、名将ロンメルが、常に兵力で劣勢だった為、砂ホコリをわざと挙げて、敵軍に大兵力が存在するかのように欺いたり、また前回のコラムにおいて「ラインの守り」のお話をしましたが、第10話での黒森峰が、一気に森を突っ切り、油断していた大洗女子に襲い掛かるというシーンがありましたね。あれはまさしく「ラインの守り作戦」を元ネタにしています。

ガールズ&パンツァー第7話のプラウダ戦に物申ス!

ガルパンから歴史を学ぼう⑥プラウダ戦のモチーフは「スターリングラード戦」ではありません!多分!!

画像引用元:© GIRLS und PANZER Film Projekt / © GIRLS und PANZER Projekt

そして、今回のコラムでご紹介するのは、第7話のプラウダ戦についてです。

本編では、大洗女子がプラウダ校に包囲されてしまい、同校の降伏勧告を受けます。

しかし、みぽりん達は、この試合に負ければ学校が廃校になることを知り、戦う決意をします。そして、大洗女子はプラウダの包囲を突破するというこのシーンですが、このプラウダ戦の包囲戦について、1943年1月にドイツ軍の第6軍が全滅した「スターリングラード戦」を思い浮かべる方も多いのではないかと思います。

また、あるガルパンのファンブックにおいても、制作スタッフとのインタビュー記事の中にも、インタビュアーが

「プラウダ戦のイメージはスターリングラードですね」

と製作スタッフに投げかけた記事がありました。確かにスターリングラード戦は筆者の高校時代の世界史の教科書に載るくらいの有名な戦いでしたが、

ここの部分はあくまで筆者の独断と偏見です。プラウダ戦は「スターリングラード戦」が元ネタではないと思います!!

筆者が思うに、これは、1944年に行われたドイツの大撤退戦「カメネツ=ポドリスキー包囲戦」だと思います。

この要因としてポイントが2つあります。

 

  1. みぽりんが、カチューシャのわざと開けた包囲の穴を通らず、多数の戦力が揃っていた包囲の分厚いところを突破したところ
  2. カチューシャの「バカじゃないの!分厚いところを突破するなんて!」という台詞です

この辺の解説もできるだけ詳しく、わかりやすく、簡単に説明したいと思っています。うむむ簡単に説明できるかな…(;’∀’)

将兵20万人を脱出させよ!!史上まれに見る成功に終わった、「カメネツ=ポドリスキー包囲戦」と自分の首をかけて脱出させた「ドイツの頭脳」マンシュタイン元帥

ガルパンから歴史を学ぼう⑥プラウダ戦のモチーフは「スターリングラード戦」ではありません!多分!!

この、大脱出作戦を語る前に、軽く当時の東部戦線の状況と、本題の「カメネツ=ポドリスキー包囲戦」の前に行われた「チェルカッシー包囲戦」を軽く説明します。(軽くで済めばいいのですが…(笑))

1942年12月、スターリングラードで、包囲されたドイツ第6軍を助けるために、ドイツの頭脳と呼ばれた「エーリッヒ・フォン・マンシュタイン」元帥の下、行われた第6軍救出作戦「冬の嵐作戦」が、あと一歩という所で失敗し、1943年1月、ドイツ第6軍が降伏。1942年半ばから始まったスターリングラード戦に決着がつきました。

ドイツの丸々一個軍が消滅する事実とともに、この時降伏した第6軍司令「パウルス元帥」もドイツの歴史上初めて敵軍に降伏した「元帥」(だったと思います…)として、ドイツ軍には衝撃を、ソ連軍には士気を高めました。

この年の1943年は、ドイツにとって一進一退の戦いが続きました。

兵力で圧倒するソ連軍の攻勢を、兵力に限りがあるドイツ軍は、主に戦車部隊を活用したいわゆる「機動防衛」を用いて、何とか戦線を保ちました。

この「機動防衛」で特に有名な戦いは、東部戦線における要所の一つである「ハリコフ」を巡って行われた、ハリコフ攻防戦で、この第1~4次まで続いた攻防戦の中でも第3次ハリコフ戦は、まさに名将マインシュタインの手腕を発揮した「バックハンドブロウ」と呼ばれたこの戦いは、撤退を続けるドイツの中で久しぶりの勝利となりましたが、この頃からドイツは人的資源が枯渇し始めており、特に歩兵部隊の弱体化が目立ち始めました。

また、史上最大の戦車戦として有名なクルスク戦車戦、ドイツ名「ツィタデレ作戦」では、キルレシオ(自軍と敵軍の撃破比率)こそドイツ軍の圧倒的勝利でしたが、アメリカ軍による、イタリアのシチリア島上陸作戦「ハスキー作戦」の一報がヒトラーに入ると、急きょ作戦を中止し、クルスク戦車戦に投入した部隊の一部をイタリアに派遣します。

結果的にクルスクから撤退したドイツ軍であり、またソ連軍の損害もドイツと比べ、圧倒的に大きい物でしたが、それに勝る予備兵力が存在し、この戦いはソ連軍の勝利となりました。

そして、このクルスク戦車戦が、独ソ戦のターニングポイントになり、休みなく続くソ連軍の連続攻勢に対して、ドイツ軍の消耗が耐えきれず、ソ連領の各地からドイツ軍は撤退をし始めます。

ドイツ軍にとっては悪夢のような包囲戦「チェルカッシ―包囲戦」

1944年にはさらにドイツ軍の状況は悪化。ついに「第二のスターリングラード」の危機が迫っていました。そして、その時は訪れます。ウクライ方面に布陣していたドイツ第8軍が、ソ連軍の標的となり、完全に包囲されます。

包囲撤退戦は、ソ連名「コルスン包囲戦」、ドイツ名「チェルカッシ―包囲戦」です。

ドイツ約5万5,000人の将兵が包囲され、師団数単位だと5,6個師団相当が包囲されていました。結果として2万人の戦死傷者と引き換えに、3万5,000人が脱出に成功しました。

しかし、今度はこのチェルカッシー包囲戦で、活躍した第1装甲軍が包囲されます。これが、今回のコラム題目になりました、ガルパンのプラウダ戦の基になったと筆者が思っている)ドイツ名「フーベ包囲戦」、ソ連名「カメネツ=ポドリスキー包囲戦」です。

ちなみに、ドイツ名の「フーベ」とは包囲された第1装甲軍の司令官ハンス・フーベ大将からきています。

マンシュタインの生命を賭けたヒトラーへの直談判

チェルカッシー包囲戦で活躍した第1装甲軍は、軍の中核となる「機甲師団」(つまり戦車部隊)が多数存在し、包囲された将兵は20万人に及びました。

これを失う事は、南方軍集団の崩壊を意味していました。これに対し、すぐさま南方軍集団司令マインシュタイン元帥は、ヒトラーから許可が出てもいないのにも関わらず独断で、フーベ大将に脱出を命令。しかし、ヒトラーの死守命令に背いた形となり、マンシュタイン元帥はドイツ本国へ戻され、ヒトラーに撤退命令の許可と増援を取りに行きますが、当然ヒトラーはこれを拒否。

マンシュタインは「この作戦が承認されなければ、軍集団指揮は他の者に任せた方が良いでしょう」と、ついに自分の首を掛けます。

すると、翌日にはヒトラーが折れ、マインシュタインに増援と撤退命令の許可をしました。

脱出は西か南か?ガルパンのプラウダ戦の元ネタはここ!!(だと思います)

ガルパンから歴史を学ぼう⑥プラウダ戦のモチーフは「スターリングラード戦」ではありません!多分!!

画像引用元:© GIRLS und PANZER Film Projekt / © GIRLS und PANZER Projekt

こうしてヒトラーから撤退命令の許可を得たマンシュタインの次の行動は、第1装甲軍をどの方面に脱出させるかでした。

実はこのカメネツ=ポドリスキー包囲戦では、南のルーマニア方面にソ連軍の包囲の穴がありました。

つまり完全に包囲されている状態ではなく、敵がいない脱出路が存在しました。

通常なら、この包囲の穴がある、南に向かって脱出させますね。しかし、名将マンシュタインは、敵の包囲網の分厚い部分である、西方面への脱出を、第1装甲軍に命令します。

実はこの時、ソ連軍のジューコフ将軍は、南に包囲の穴があることを認識し、ドイツ軍がそこを通って脱出すると予測。

西方面の部隊から主力部隊を引き抜き、この包囲の穴に向かわせて、ここでドイツ第1装甲軍を撃滅しようと考えていました。しかし、ドイツ軍マインシュタイン元帥は、無線傍受によって、この動きを察知し、第1装甲軍を西へ脱出させます。

この部分が、アニメの劇中でプラウダ高のカチューシャが

「あえて包囲網にわざと緩いとこ作ってやったわ。やつらはそこをついてくるはず。そこに来たら挟んでおしまい」

というセリフは、史実でソ連軍ジューコフ将軍が、ドイツ軍が包囲の穴に来ることを予想し、主力部隊を向かわせた事と被せていると思われます。

また、アニメ劇中で、カチューシャの予想に反して、大洗女子が、プラウダ高のカチューシャの待ち構える、正面に突撃をしたことに関し

「こっち!?馬鹿じゃないの!分厚いところに来るなんて!!」

というのも、ジューコフ将軍が、自分の予想とは反して、第1装甲軍が、包囲の分厚い西側に、敵中突破を仕掛けたこと、また主力を南に向けており、完全に裏をかかれた事を、被せたものと思われます。

史実では、ドイツ軍がソ連軍の包囲網を突破してウクライナから撤退成功

ガルパンから歴史を学ぼう⑥プラウダ戦のモチーフは「スターリングラード戦」ではありません!多分!!

そして、史実では、マンシュタイン元帥の命令で、西へ突破した第1装甲軍は、包囲は分厚いものの、主力部隊が抜けていたとされる、ソ連軍部隊と交戦し、突破に成功。増援として派遣された、第4装甲軍のSS第10装甲師団が、第1装甲軍の先頭を走った、第6装甲師団と連絡し、包囲されていた20万の将兵は脱出に成功します。

これにより、ドイツ軍はソ連の資源地域であった、ウクライナ(クリミア半島を除く)から完全撤退しました。

ちなみに余談ですが、この増援に来た、第10SS装甲師団「フルンツベルク」は、後にノーベル賞ドイツ人作家となる「ギュンター・グラス氏」が、大戦末期に戦車の砲手として配属されたことで有名になった部隊でもあります。←(これで結構問題になったらしいですね)

しかし、その後、この作戦を指揮した名将マインシュタイン元帥は、この作戦終了後に、ヒトラーにより予備役に更迭されます。

その後、彼が戦線へ復帰することは終戦までありませんでした。

ドイツ軍屈指の有能な将軍マンシュタイン元帥を失ったナチス第三帝国の運命は?

数少ない「ヒトラーに意見ができる将軍」として、1940年の大国フランスを6週間で降伏させた「西方電撃戦」の作戦立案者であり、東部戦線の要所の一つであるクリミア半島の「セヴァストポリ」を陥落させ、第三次ハリコフ戦では、機動防衛による「バックハンドブロウ」でハリコフを奪還した、「ドイツの頭脳」エーリッヒ・フォン・マンシュタインの喪失は、その後のドイツ敗北を早める結果となっています。この辺はまた機会がありましたらご説明します。

終戦後、逮捕されたマンシュタインは、ニュルンベルク裁判によって懲役18年の刑を言い渡されますが、その後12年に減刑され、1953年に保釈されます。保釈後は、ドイツ連保軍の創設に尽力し、1973年6月10日に他界します。

そうそう、以前のコラムでもし歴女チームに筆者がソウルネームをもらえるとしたら、何がいい?という話を書きましたが、

筆者は、この「エーリッヒ」もしくは「マンシュタイン」が希望です!!実物のマンシュタイン元帥の写真もかっこいいんです!

だから、あれは「スターリングラード戦」じゃないんだってばよ!(叫)

では最後に、大事なことをまとめていいます。

「プラウダ戦の元ネタは、カメネツ=ポドリスキー包囲戦だと、筆者は思います!!」

今回も超マニアなネタになってしまいましたが、コラムを覗いて頂いた全ての人に読者様に感謝です!

次回もまた覗いていただければと思います。では今回はこの辺で失礼します~<m(__)m>

ガルパンから歴史を学ぼう⑤プラウダ戦で桃ちゃんはなぜ「Nuts!」と叫んだか?

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