アニメ「 N・H・Kにようこそ! 」は2006年に放映されたテレビアニメーション。生きづらさを抱えた青年が、ひきこもりのニートという運命に翻弄されながらも、同じく内面に苦悩を抱えた他者達と関わり合い、その在り方を通じて、倫理的に自助の道を辿る物語。
ひきこもりはいわゆる怠け者なのか?
主人公は大学1年の真夏のある日、学校に行く途中に道行く人々から自分に対する悪口や罵ったり主人公を嘲け嗤う声が聞こえきて、耐えがたい苦痛を感じ、自宅のアパート逃げ帰り,それ以来アパートの部屋から外出することをやめた。
ひきこもりはいわゆる病気なのか?
主人公はなぜ人々が自分の事をあざけ嗤うのか理由を考えるがどうにも説明がつかない。1日16時間近くも寝る暮らしを続けては悪夢にうなされ過去の記憶に苛まれてしまったあげく、自分が引きこもりのニートで何事もうまくいかない原因は世界の陰謀に自分に巻き込まれてしまったと結論付ける。その陰謀の名は「日本引きこもり協会」略して「N・H・K」。
そこへ、新興宗教の勧誘がくる。ドアレンズ越しに現れた美少女が本作のヒロインである。
N・H・Kにようこそ! の主な登場人物
佐藤達広
大学を中退した、ひきこもり暦4年目の21歳、ある日の通学中、とつぜん人前に出られなくなってひきこもりになる。そのため大学を除籍される。中原岬にひきこもりであることを見抜かれて、ひきこもりの脱出のプロジェクトのカウンセリングを受けることを勧められて中原岬と契約を交わす。高校時代は負けん気を内に秘めたしらけた振る舞いをしていた。少しスピリチュアルな性格のせいか自分のついた嘘に自分が騙されてしまう傾向にある。人混みの中に入るのが苦手でパニックを起こす。
中原岬
主人公の前に現れる謎の美少女。主人公に対してあるプロジェクトに抜擢されたと告げ、岬は達広へ、そのプロジェクトに参加するための契約書にサインを迫る。大人しい性格だが自尊心や自己肯定感に乏しく、そのためにプロジェクトの内容にも明かしていたように、自分よりダメな達広を探し出して相手にすることで優越感を得るなど、奇妙な考え方の持ち主でいるが、プロジェクトが終わる際に意に沿わない出来事が起きると自殺未遂を起こしてしまう。
山崎薫
主人公の学生時代の後輩。偶然にも達広の隣の部屋に越してきて毎日大音量でアニソンを流しているオタク。アニメーション制作学校に通い、アルバイトをこなしているが、ひょんなことから達広を巻き込んでギャルゲー制作に没頭し、紆余曲折を経てコミケに出品するまでにこぎつける。オタクだけにこだわっていることについては理解されないことに攻撃的な口調で主張するが喧嘩は弱い。しかし根は優しい。
ひきこもりはいわゆる後ろ向きなのか?
ひきこもりの佐藤達広が、隣人で学校の後輩の山崎薫とギャルゲー制作に没頭するが、それもこれも、ひきこもりだと中原岬に知られて“ひきこもり脱出プロジェクト参加の契約”をしたくないからだった。
中原岬にクリエイターの仕事をしているという嘘を簡単に見破られながらも、山崎とともにインターネット付きパソコン一つから始めて、オタクの道まっしぐらに転がり落ちる。
オタクの聖地と呼ばれる電化街で山崎とはぐれ人混みの中でパニックを起こした達広だが、高校の先輩の柏瞳と偶然の再会をして感慨にふけるものの、帰宅しても不安に苛まれて、けっきょく、岬のもとへ戻り、“ひきこもり脱出プロジェクトの契約書”にサインする。
山崎とギャルゲー制作を目標に、無職だけに収入の道を探りながら、岬のカウンセリングを受ける達広に様々な誘惑や出来事が待ち受ける。
ひきこもりはいわゆる甘えなのか?
ひきこもりという個人的な事情から、新興宗教の勧誘が垣間見える近所付き合い、美少女をこよなく消費するオタクという性質の娯楽を通じての社会風俗を少し露悪的に本作は描いてゆく。
主人公はそれらの生産側に立つことを目標にするが、それがひきこもりの甘い誘惑の罠であることを主人公は事あるごとに思い知らされるのが痛々しい。
やがて、あぶないインターネットの掲示板の闇サイトの住人と関わって危うく死にかけたり、インターネットゲームにのめり込んで現実とバーチャルの見境を失いかけたり、人馴れしないままマルチ商法の勧誘に引っかかったり、情緒不安定な高校の先輩から不倫関係を誘われて人生を踏み外しそうになったり、それを岬に目撃されてしまって、新たな契約書にサインを迫られたりと、主人公は散々な目に遭う。
それでも、なんとかギャルゲーを完成させて冬のコミケに出店するが成果は芳しく無く、山崎は実家の事情で帰郷し、岬とは仲違いしたまま主人公は実家からの仕送りも絶えて孤立してしまう。
ひきこもりはいわゆる恵まれているのか?
とどのつまり、ひきこもりの主人公は飢えを凌ぐためにアルバイトのガードマンを始めるのだが、そこへ岬が自殺未遂を起こしてしまうのだった。
少しばかり飛躍していますがご笑覧くだされば幸いです
ひきこもりはいわゆる悪なのか?
どこまでいっても誰も救われない物語が続くので暗い気持ちになるが、主人公がたどった物語は、ほとんどと言っていいほど社会問題ともいうべき消費社会の闇の部分であって、誰もが一歩、間違えば陥る人生の落とし穴と言えるかもしれない。
それほど世の中は、複雑なパズルのようにあの手この手で消費者意識を刷り込まれて自分を見失う仕掛けがところかしこにあるとも言えよう。
自殺未遂を起こした岬は、病院を抜け出して出身地の岬のある崖の上を雪の中ひとり目指す。岬も複雑で過酷な幼少期を送った少女であることを達広は岬の叔父から知らされる。
社会の偏在し、拡散、定着する闇は個人の家庭的な育ちの不幸が発端であることを示唆する描写とも言える。
達広は必死の思いで特急に飛び乗り岬の後を追いかける。そしてなんとか崖から飛び降りる岬を止めるが、達広自身、世を儚んで岬の自死を止める資格が無いことに打ちひしがれる。
そして、それらのすべての元凶が“日本引きこもり協会“”日本悲観協会“”日本ひよわ協会“などと「N・H・K」の陰謀であることを岬に言い聞かせ、それらの陰謀に命を賭して戦うことが自分の使命であり、海から押し寄せる陰謀の正体を撃退することが唯一の達広と岬の救いへの方法だと叫びながら達広は爆弾代わりの携帯電話を片手に崖から飛び降りるのだった。
個人的な問題を照らし出す社会問題に情緒的な解決を目指す主人公
クライマックスシーンは文学的なカタルシスとも言えるべき救いがたい達広自身のヒロイックな人生のサバイバルの手段だが、それが、崖からの身投げでは矛盾している。
いや、達広と岬の関係の上では矛盾していないのである。
自尊心の低い人が自分よりダメな人間を前にして優越感に浸るのが岬の処世術ならば、孤立した自尊心の低い岬を自死から救うために“自分が死ねば相手も死ぬ”という状況に立たせて“相手を死なせたくないから自分も死ねない”という、ヒトとして倫理感の原点に立った関係を示すことによって、達広はダメな人間同士が互いに抱え込んだ孤独から救いを目指しているだけなのである。
むしろ、人々が各々頑張って孤立から抜け出すのが自助努力なら、この二人はお互いを頑張って孤立から抜け出させる点においては他助努力とも形容すべき自己犠牲に満ちている。
自己犠牲が対人関係において健全かどうかの議論はともかく、少なくとも二人はエピローグとも言える最後の契約書“日本人質交換会(自分が死ねば、相手も死ぬ。相手も死ねば、自分も死ぬ)”にサインするあたり、二人はギブアンドテイクの“ギブオンリー”“テイクオンリー”ばかりの飽食の社会のエアポケットを突き抜けて、二人の淡い恋心から始まるギブアンドテイクのドライな関係の現実にようやく向き合おうとしているのだな、という感想を抱いたが、いかがだろうか。
文章:kyouei-drachan