金剛たけしが軍事関連書をザックリ解説します⑤台湾沖航空戦、日本引き上げを経験した富士興産会長、小川金治郎氏「これが私の人生~金ちゃん穿入蛇行90年」④その最後の戦い「引き揚げ」の従事する金治郎氏

金剛たけしが軍事関連書をザックリ解説します⑤台湾沖航空戦、日本引き上げを経験した富士興産会長、小川金治郎氏「これが私の人生~金ちゃん穿入蛇行90年」④その最後の戦い「引き揚げ」の従事する金治郎氏

1945年3月、台湾沖航空戦を経て、その後厚木航空隊へ戻った小川氏は、「海軍二等飛行兵曹」に任命され、ここで「下士官」となります。(海軍では、二等兵層で下士官)

二等兵層となった小川氏は、その後木更津航空隊、松島航空隊(宮城県)、と転属し、終戦の1945年8月15日は神町航空隊(山形)で迎えました。小川氏は、転属をしている最中、幾度も特攻機を見送ったことを回想しています。

終戦後、小川氏は「後ろを見て過ごした半年間」と称した、時間を過ごし、1946年4月から、あることがきっかけで、いわゆる日本の最後の戦いとなった「引き揚げ」の業務につくことになります。

実は、当時の厚生省の記録に、小川氏の海軍時代の成績が残っており、厚生省が小川氏を招聘。小川氏は舞鶴で、引き揚げに携わる事務官となります。

大戦中、日本は東南アジア、中国方面で軍を送りましたが、それだけでなく一般人も海外に多数いました。その代表例が、満州における開拓団でしょう。

ちなみに、筆者も詳しいことはこの書で知りましたが、一般的に間違えやすい語句として、「復員」がありますが、復員は武装解除した軍人が一般人に復帰することを指し、「引き揚げ」は戦時中に海外にいた一般人が本国に戻ることを指すそうです。

当時、樺太、東南アジア、朝鮮半島など、海外に取り残された日本人は約660万にいたとされ、その一部は、シベリア抑留、中国で始まった2度目の国共紛争、また、有名どころでは、その後始まった、東南アジア諸国での独立戦争に加わったに元日本軍人など、ついに母国の土を踏むことなくこの世を去った日本人も多くいました。

引揚はGHQ(占領軍)の管理下の元、行われています。日本政府は、1945年9月28日、呉、浦賀、横浜、下関、博多、門司、佐世保、鹿児島、仙崎などを、引揚に使う専属港に指定し、10月7日には舞鶴に、韓国釜山から、陸軍軍人2100人を乗せた「雲仙丸」が入港し、これが引き揚げの第一船となったと本書で紹介されています。

小川氏は、舞鶴引揚援護局で、引き揚げ業務にあたります、当初は、舞鶴西警察署、舞鶴重砲兵連帯と共に業務当たったといい、業務は主に、検疫、税関検査、復員・引揚証明書の発行など多岐にわたりますが、政府から、引き揚げ者は、24時間以内に列車に載せて帰郷させろという指令が出ていたため、まさに不眠不休の連続だったそうです。

引揚者の多くは、着の身着のまま、現地から脱出をしてきた人たちが多く、栄養失調、マラリアなどの病気にさらされ、さらに引揚で使用された船は、当然現在のように空調設備がないため、港についた時には引揚者たちは疲労困憊が目に見えていたといいます。この時、GHQから日本政府は、伝染病の蔓延に警戒するよう、検疫を厳格にやるよう指示が下っており、小川氏達、検疫に関わっている者たちは、米軍が持ち込んだ「DDT」という塩素系の殺虫剤を、引揚者たちに頭から被せるという業務をこなしていたといいます。

さらに悲劇だったのは、引揚者の中には、日本で待っているはずだった家族が、空襲などで一家に生き残りが1人もいないことがショックで自殺を図る者も多かったといいます。

舞鶴では、1945年9月~1955年9月までの13年間で、346隻の引揚船を入港させ、66万人が上陸。遺骨の数は1万6,000柱にもなったといいます。

また、1950年以降では、舞鶴が唯一の引揚船受入港となっています。

小川氏は、この時の引揚船に使用された船についても書いています。引揚船で使用された船は、いわゆる日本連合艦隊の生き残りである各空母、駆逐艦など170隻余り、その他の日本船籍の商船等50隻。また、米国から戦時標準輸送船(リバティ船)、戦車揚陸艦(LST)など100隻の貸し出しがあり、さらに燃料等も提供してくれたといいます。

日本の生き残り軍艦でいいますと、空母鳳翔、葛城、巡洋艦鹿島、北上、駆逐艦神風、波風、海防艦国後など、大小様々だったといいます。

(戦時中、主に沿岸警備、船団護衛などの任についていた、海防艦「国後」。引揚にも従事していたが、そのさなかで座礁事故を起こしていた。写真:Wikipediaより)

これらの船は、戦うという目的から、人を乗せるという目的に変わっていため、トイレの増設、武装を下ろして居住スペースの増設などを行っていたといいます。

小川氏は、本書で、静岡県沖で起きた、自身を乗せた海防艦「国後」の座礁事故などを語っており、様々な苦難を乗り越え、引揚に携わった2年間を全うしたと記しています。

その後、小川氏はレアメタルスクラップリサイクルのパイオニアとして「富士商店」を創業。その後「富士興産」と名前を変え、現在に至るという事です。

小川氏は、現在では、業界内で伝説的な存在となっています。また、戦時中の貴重な話ができる希少な存在となっており、今後も元気で自身が作った会社でのご活躍を祈るばかりです。

※この貴重な書籍を出版された、富士興産会長小川金治郎氏は、2020年1月26日に永眠されました。当時私の様な若輩者に対し、快く取材を受けて頂いたことを覚えていますが、それだけ寛大な心の持ち主でありました。ご冥福をお祈りして、今回のコラムを締めくくらせていただきます。

(文;金剛たけし)

タイトル及び画像の著作権はすべて著作者に帰属します。

この記事のライティング担当:金剛たけし

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